熟練プロがおしえるジャズピアノ講座!ジャズピアノ、作曲、アレンジ(編曲)に興味のある方、大いに学んでください。

ごあいさつ

ごあいさつ

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初めまして!鈴木“ドラちゃん”滋人です。まず最初に…何故“ドラちゃん”なのかという話から始めます。

アメリカで勉強し、日本に戻ってきた当初は何の伝手もなく、これからどうやって音楽で飯を食おうか悩んでいました。その時、こちらの大学時代の友達のベースが(実は、この頃、また一緒に演奏したりしているのです。人生の出会いというのは不思議ですね)プロとして仕事を始めていて、とあるパーティの演奏の仕事(今でも覚えています。ギャラは1万でした)に誘われました。

その時のバン・マス(ギタリスト)がすごく僕の事を気に入ってくれて、その後ジャズ・クラブでの演奏(もうなくなりましたが、G7というジャズ・クラブでバニーちゃんがいて、若い僕には目の毒でた)、バック・バンドでの演奏(この時初めてバック・バンドを経験しました。なんと一番初めは舟木一夫です。テレ朝にも、それで初めて出ました。母親が喜びました)等に誘われました。

彼が僕の事を“ドラちゃん”と呼んでいました。でもその頃は、若いし、変なプライドもあったのでそのような呼び方はすごく嫌いでした。多分彼は、その頃自分の子供が小さく、よくドラえもんを一緒に見ていたのでしょうね。多分僕が太っている事、よく繋ぎのジーパンを着ていた事、声が似ている?事から(僕としては「ひょっこりひょうたん島…わかります?…のドンガバチョ」に声が似ていると以前言われましたが)ドラちゃんドラちゃんと嬉しそうに言っていました。
彼とは伊勢正三さんのバック・バンドの後、会っていません。音楽やっているとそのような出会いや別れがいっぱいあります。

同時並行でアレンジの仕事もしていました。こちらは、兄が邦楽のディレクターをしていた関係で、アレンジャーを紹介され、向こうの大学で書いたビッグ・バンドのアレンジ曲を持って面接に行きました。その人は田辺信一という人で、ヒデとロザンナというタレント・デュオに曲を書いた人なのですが、その頃ものすごい量の仕事を抱えていました。NHKの「レッツ・ゴー・ヤング」、2時間ドラマの劇伴、NHK教育の劇伴、CM。アイドル・タレントの映画音楽、ありとあらゆるビジネスとしての音楽をやっていました。田辺さんは多分その激務が災いして早く亡くなってしまったと、僕は考えています。

話を戻して、僕の面接はOKで、田辺さんの仕事を手伝うことになりました。そこで、ビジネスとしての音楽を経験しました。締め切りの過酷さ、ミスの許されない仕事、録音の時もシンセの演奏も頼まれましたので、スタジオ・ミュージシャンの凄さ等、いっぱい経験しました。

田辺さんからCMの音楽のディレクターを紹介され、そこからCM音楽の仕事に入りました。CM音楽も過酷でした。曲作りには、打合せの日も含めて2日間しかなくすぐ録音です。でも田辺さんのおかげでそれが当たり前だ、という認識は持て、プライドにもなりました。

このような仕事仕事した生活の中、ある時期ピアノに対する情熱が失せてしまったのです。「音楽は金をもらって何ぼじゃ!」などと驕った考えがあったのです。多分バブルも影響していたのかもしれません(←これは言い訳です)

仕事はギャラが高くなると安い方に流れるのは鉄則です。仕事が少なくなりました。僕は考えました。何がいけなかったのかと…。音楽の本質はそのような仕事の仕方ではない!本当に音楽で仕事してきたのか?僕は、音楽の喜びや楽しさを与えようとして作ってきたのか?僕の音楽を本当に楽しんでもらおうと思っていたのか?という「本当に大切な事」に目を背けていたのだと今は考えています。

その反省からその後は他の人に音楽の素晴らしさを伝え、その喜びを共有出来れば、音楽家としては最高の幸せと思い、現在、演奏、レッスン、出版活動を行っています。

近年のネット環境は素晴らしく、情報の発信として、非常に有効な物と感じています。このサイトでも、より多くの人々に僕の今まで経験や知識、音楽の楽しさを伝えられたら、僕にとって最高の幸せです。

ドラえもんは、のび太クンの無理難題の要求に対して、困ることはあるけれど、決して拒否はしません。のび太クンが喜ぶ事を無条件でかなえてあげようという気持ちでいっぱいです。今、僕は、ドラちゃんという呼び名を積極的に、また喜んで、使おうという気持ちが一杯です。

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